かばだんなさん かく語りぬ Header Image

ディープなプロファイル

ディープなプロフィールです。
こんな所まで訪ねてきて下さるなんて・・・・あんたも好きねぇ(加藤茶の声で読んで下さい)。

1971年
福岡県 飯塚市で生まれる。本籍は北九州市。両親揃って福岡の人のため、育ちは名古屋ですが、テレビで博多華丸・大吉がスベると我が事のように切なくなります。
1980年
マンモス校だった自分の小学校がのれん分けをしたため、この年の春から新設校で学び始める。しかし4月の最初にやった事は、前の学校から新しい学校まで自分の机と椅子を運ぶ事であった。子供の足で普通に歩いて20分ぐらいの距離をえっちらほっちら。ピカピカの新校舎にたどり着いた時、かばだんなさんは子供ながらに公共予算の投入される所とされない所を学ぶ。
1983年
不思議な担任の先生と出会う。オールバックにレイバンのサングラスと口ひげ、赤シャツ・白いスラックス・白のエナメルの靴。それでいて公務員。すごい(笑。指導方針も破天荒だったこの先生、僕らはみんな大好きでした。だからでしょうか、かばだんなさんはこの後マイノリティに好意的になります。
1987年
高校に入って演劇部に入る。芝居というのは実に非効率なメディアです。ライブ一発それっきりですから。録画ではその良さが表現しきれないのは音楽も同じですが、芝居の場合は準備時間がかかり過ぎます。これ以降、「この公演ハネたらもう芝居からは足を洗おう」と思いながらもオフになると芝居の緊張感が恋しくなってまた芝居の世界に戻るという生活を何年か続ける。
1990年
大学生になる。教育学部 小学校教員養成課程 社会科学科 東洋史専攻。高校を卒業するに際して、もう芝居なんてやくざな世界からは足を洗おうと決心していたのだが、長い春休みにうんざりして入学式の帰りに演劇研究会の練習場所に遊びに行って即日入部。それ以降東洋史の授業以外はちっとも学校に現れない男となる。そのせい(にしてはいけないのだが)で、1年前期の取得単位数は7.6単位(5コマ、卒業に8年かかるペース)。この時期にかばだんなさんは芝居を通じて「お金を頂く」という事について学ぶ。
1991年
この年の東海地区国立大学文化祭の学生代表(演劇部門)となります。演劇研究会の団長でもない、ただの渉外担当でしかなかった私がこの大役を仰せつかったのは恐らく、いつも何かと大学当局に無理を聞いて頂いており、かばだんなさんが断れない事を当局に見越されたからじゃないかと思うのだが・・・水谷係長いかがですか(笑?この時期、お上の予算という透明な壁に初めて触れる。
1992年
小学校へ4週間ほど教育実習に行く。とても楽しかったけれど、かばだんなさんは自分が教師に向かない事を痛感する。あの違和感は教師に向かないと思ったのか、公務員に向かないと思ったのか、今もって不明。
1993年
卒業論文を書く。タイトルは「明代女真族の台頭に関する一考察」。最近偶然その頃の資料・下書きを発掘したので読んでみたら、結構真面目に勉強していてビックリした(笑。当時繁体字の文献を読んでいた割に、今となって中国語の文章読解が今一つなのは、きっと勉強が足りなかったのだろう(苦笑。この時期、かばだんなさんは歴史学が科学でなければならない事を学ぶ。
1994年
奇跡の逆転劇で4年で大学を卒業したかばだんなさん、名古屋に戻って100人ぐらいのシステム開発会社に入社する。ご多聞に漏れずずっと客先常駐だったが、いいお客さん・協力会社仲間が多かったので勉強させてもらう。
1995年
システム開発の現場では同じ年齢の専門学校卒の方が重宝される現実が悔しかったかばだんなさん、夜間の大学院に行き始める。研究テーマは「IT化がホワイトカラーの働き方に及ぼす影響」。当時はまだIEも出ていなかったが、「インターネットは絶対来る!」とハマっていた。しかし1日100km以上車を運転する生活に疲れ、1年で中退。
1998年
「東京営業所を作るまで帰って来るな」と言われて東京に転勤。もちろん客先常駐である。東京組6人のサブリーダーであったが、ある日突然リーダーが心の旅に出てしまう。工程表によるとリーダーはその時期名古屋の本社で開発部隊の指揮を執っている事になっていたのですぐには表ざたにならず、東京残留組のリーダーだった かばだんなさんは3ヶ月間アリバイ工作を行う。とはいっても当然お客さんにも協力会社仲間にもバレていた。みんな分かっていて かばだんなさんを責めないでいてくれたのである。辛かったけれど涙が出るほど有難い事のたくさんあった時期である。この時期、かばだんなさんは「事件は会議室で起きているのではなく、タバコ部屋で起こっているのだ」と学び、4年振りにタバコを吸い始める。
2000年
東京での仕事が面白くて名古屋への帰還命令を蹴った かばだんなさん、新宿の20人の会社に転職し、ここでラインマネージメントの修業を行う。会社的には非常に厚遇して頂いた。この時期、かばだんなさんは「理屈ではなく感情で動く人間は意外と多い」という事を学んだ。
2001年
2000年のある案件で半元請けの立場でプロジェクトを回してみると、これが面白い面白い。ということで、元請けSI屋であるTIS株式会社に入社する。それまでアプリ開発ばかりだったのが、ネットワーク・インフラ・運用・調達と色々な経験をさせて頂く。この時期、会社の看板が変わっただけなのに周りの扱いが随分変わった事に かばだんなさんは困惑する。
2003年
この時期のかばだんなさんは、ラインのマネージャー的な仕事を中心にやっていた。この時期は技術的な事はほとんど考えずに、チームの将来の事ばかり考えていたような気がする。もちろんいくつかのプロジェクトは仕切ってたのですが。
2005年
この頃からラインマネージャー的な仕事は後輩に引き継ぎ、難易度の高い開発案件のリーダーや、開発途中でパフォーマンス不芳が発覚したプロジェクトにチューニングチームを編成してそのリーダーとして参画する仕事などが中心になる。この時期のかばだんなさんは、このテの問題を解決するには「諦めの悪い技術屋魂」と「磨き上げた技術力」の相乗が最も有効だと、改めて学んだ。
2007年
株式会社シャル・システムサービス設立。当初はただの筆頭株主であり、経営陣に古い知り合いを紹介したり、社内ツールを作ったり、ということはあっても経営にはノータッチだった。ただし社名とロゴだけは私が決めた。この時期のかばだんなさんは、会社の看板が変わっても思ったほど知り合いが減らないという嬉しい驚きの中にいた。
2008年
TIS株式会社を退職、実質的にシャル・システムサービスの経営を行う事になる。なにせ準備不十分だったので戸惑う事も多かった。この時期のかばだんなさんは技術屋的な事はほとんどやっていない。また、顧みるにかばだんなさんの髪が薄くなったのは、この時期である。
2009年
この年の初め、インストールマニアックスというファンキー極まりないコンテストに参加した。そこら辺の経緯はブログに書いたので詳細はそちらに譲るが、久々に技術屋に戻ったかばだんなさんは色々な意味で良い刺激を受けた。この時期から、シャル・システムサービスのLL言語の軸がRubyからPHPに移っていく。
2010年
前年度からの目標にしていた「新規のお客様にお取引頂こう」は継続。ありがたいことに何社かの新しい出会いがあって色々な方とお仕事をさせて頂く事ができ、いくつかの新しい世界をいっぺんに垣間見た。
To be continued …
最後は私の好きな劇団の最も好きなセリフで閉めましょう。

あなたと私の冒険は、まだ始まったばかりです